ezuの服は、着る人の数だけ、違う物語をまといます。
つくる人がいて、届ける人がいて、その服を最後に引き受ける「まとう人」がいる。日々の暮らしの中でさりげなく羽織る人もいれば、人前に立つ一瞬のために、袖を通す人もいます。
マレーシアのテレビカメラの前に、一人の芸人が立っています。国営放送RTMの取材。インタビューは、すべてマレー語。その大切な一日に彼が選んだのは、群馬・桐生で、一枚ずつ手をかけてつくられた、ezuの服でした。
吉本興業所属のKLキンジョーさん。
大阪に生まれ、27歳でマレーシアへ渡り、言葉と身体で人を笑わせ続けてきた人です。
服のことを尋ねていくと、キンジョーさんの言葉は、途中からゆっくりと向きを変えていきました。「自分がどう見えるか」から、「どうやってできた服なのか」へ。その移り変わりそのものが、ezuを着るということなのかもしれない、そう思わせてくれる時間でした。
歯ブラシの弁当と、「海外ロケに行ける芸人になりたい」
キンジョーさんの家には、いつもお笑いがありました。
なかでも母親が、お笑いが大好きな人でした。遠足の日、弁当を開けたら、箸ではなく歯ブラシが入っていた。周りにいじられて、しょんぼり家に帰ると、母親は待っていたように言ったそうです。
「あれ、ウケたやろ?」
間違いではなく、わざとだった。そんなユニークな母親のもとで、彼は育ちました。

父親は沖縄の人。「金城」という名は、芸名ではなく本名です。いつも笑いの絶えない家庭で、彼は3人兄弟の長男として育ちます。
進路を決める年齢になると、大学へ進学するか、吉本に入るか。迷って両親に相談したときに、母親が返してきたのは「大学行くより、吉本行け」でした。迷ったけれど、キンジョーさんは大学へ進みます。その後、在学中に、アメリカへ留学して、ひとつの感覚が身体に入ってきました。
海外って、いいなと思って。将来、芸人として海外に行ってる自分が、見えたんですよ。
帰国後、大学を離れ、吉本興業の養成所へ。将来なりたい姿を書く欄に、彼はこう記しました。「海外ロケに行ける芸人になりたい」。
大阪で3年、東京で3年。なりたい姿を書いてから6年後、その願いは、思いがけない言葉で叶います。ある企画の最終選考で告げられたのは「猿岩石2世にするから、ちょっとマレーシアに行ってきてくれ」。
当時の興奮をいまでも鮮明に覚えていると言います。
ちょっとのつもりでした。気づけば、11年。
語り口は軽やかでしたが、その「ちょっと」が11年続いていること自体が、もう、ただごとではありません。
マレーシアで、自分の場所をつくる
いまのキンジョーさんは、マレーシアのドラマや映画、バラエティの第一線に立っています。出る側だけでなく、つくる側にも回り、映画の準監督を務めたこともある。日本なら40代後半が担いそうな仕事を、30代後半の彼が引き受けている。
マレーシアは、感覚的に10歳、若いんですよ。
そんな芸人人生を大きく塗り替えたのが、2022年でした。マレーシアの国民的なお笑いの大会に、なんと日本人として初めてファイナリストに残ったのです。
舞台の言葉は、マレー語。日本語のように身についた間は、そこにはありません。
「なんでやねん」みたいなネイティブのリズムが、僕にはないんですよ。だから、覚えるしかない。テンポも、全部、マレー語で。
母語ではない言葉で、笑いの間合いを、一から身体に刻んできたからこその結果。その大会を境に、映画やドラマの仕事が次々と決まっていきました。
その歩みは、2025年に思いがけない場所へとつながります。大阪・関西万博。その「マレーシア文化芸術ウィーク」のステージに、キンジョーさんは出演者として立ちました。
マレーシア観光省の企画で、現地の公式キャラクターとともに、笑いと驚き、そして“マレーシアの魅力”を届ける。マレーシア住みます芸人として歩んできた11年が、故郷・大阪の舞台へとつながった瞬間でした。
海を渡った青年が、こんどは日本とマレーシアをつなぐ一員として、その同じ街に立っている。まさか自分の故郷・大阪で、日本とマレーシアをつなぐ仕事に携われる。11年前、初めてマレーシアに来たあの日には、想像もしていなかった景色でした。
偶然たどり着いた場所ではありません。長い時間をかけて、一歩ずつ、自分の立つ場所をゼロから起こしてきた人。キンジョーさんの話を聞くほどに、そう思えてきます。

服は、自分を輝かせる道具だった
人前に立つキンジョーさんにとって、服とはどんなものですか。そう尋ねると、少し考えてから、明るい声が返ってきました。
服って、大事なんですよ。もっとセンスを磨いたら、KLキンジョーはもっと輝けるんやろうなって。ezuに出会う前、引き出せていない衣装の可能性は、まだあると思っていました。
照れずに、自分のことをまっすぐ言い切る。その口ぶりが、いかにもキンジョーさんでした。けれどその奥には、服が人の気分を確かに動かす、という手応えがありました。
気持ちが沈む季節には、明るい服で自分を引っぱり上げてきたそうです。古着屋で、大きなクマがついた真っ黄色の服を見つけたときは、迷わず「これや」と思った。着れば、自分の気分が上がる。周りも、笑ってくれる。そんな一着に、助けられた時期があった。
元スタイリストの後輩芸人と、月に一度、私服を買いに行っていたこともある。「これ似合ってますよ」と言ってくれる誰かに頼りながら、自分のバランスを保ってきました。
服は、その時々の自分を支えてくれるもの。自分を整え、明るくし、輝かせるための、近くにある道具。
その彼が、ezuと出会って、服との間合いを少しずつ変えていきます。

「身にまとわせてもらっていいのかな」
RTMの取材の日。その衣装として、キンジョーさんは初めてezuの服を手にします。
袖を通す前に、岩野は、その服がどうつくられているかを彼に見せました。一枚の布に、どれだけの手と時間がかかっているか。それを知ったとき、キンジョーさんの中に生まれたのは、高揚ではなく、ためらいに近いものでした。
こんなに手をかけて、一枚一枚つくってはるものを……僕が、身にまとわせてもらっていいのかな、って
そして、勧められた服が、どれも吸いつくように似合った。色も、シルエットも。自分なら絶対に手に取らない白でさえ、しっくりと馴染んだ。
ezuの衣装たちが、僕を傷つけないように、合わせてくれたんかな、って。そんな優しさを感じたような気がします
服が、人に合わせる。それも、守るように。
「ただ着るのとは違う」
ezuをまとった人がよく口にするあの感覚は、キンジョーさんの中では、この言葉のかたちで立ち上がっていました。

「そのバティック、どこで?」
ezuは、やがてキンジョーさんの日常に入っていきます。そのなかで起きた、忘れられない一場面があります。
マレーシアの政府系のイベント。会場の人々は、みな民族衣装のバティックをまとっています。その中をezuの服で歩いていたとき、ひとりの大臣が、彼に声をかけました。
そのバティック、どこで買ったん?
マレーシアの人は、バティックにとても厳しい。これは自国の柄か、それともインドネシアのものか。一目で見抜いてしまうほど、自分たちの衣装に誇りを持っている。その人が、日本でつくられたezuを、自分たちの美しい手仕事の一枚として受け取ったのです。
マレーシアの人が、認めたってことですよ
その一言に、こもった喜びがありました。
単に日本のものを持ち込んだのではない。海を越えて、その土地の人の目にまで届く何かを、自分が着て、その場に立っていた。
緑の服も、赤の服も、楽屋に置いていたところ、盗まれてしまったことがあるそうです。こんなことは、今までの衣装ではなかったといいます。世界に一着しかない自分のezu。いまも、どこかで誰かが着ているのかもしれない。それすらも、彼は面白がるように話してくれました。

「日本」を、背負って着る
ezuと出会って、服を見る目が、変わったといいます。
以前は、「これを着たら明るくなれる」と、自分の側から服へ向かっていた。けれどezuを着るときは、自分から服へ向かうだけでなく、服の背景が自分の中に入ってくるようになりました。
自分がどう見られるか、っていう以上に。この衣装が、どうやってできたか。その思いを、背負っている感覚があるんです。
頭のどこかに、いつも小さな札が下がっている、と彼は言います。
ずっと、頭の隅に「群馬」とか「桐生」ってハッシュタグがついてる感じ。自分じゃなくて、その思いを背負ってるような。大げさですけど、そんな気持ちで着てるような気がします。
日本のものを広めたいのではない。ezuがその布に込めたものを、自分の身体ごしに海外の人たちとも分かち合いたい。その思いに触れてしまったから、もう、適当には羽織れなくなった。

まとうと、「2割」あがる
舞台衣装として仕立てられたezuの服を着ると、気持ちが「グッと締まる」とキンジョーさんは言います。量産された衣服に袖を通すのとは、どこか違う。わずかな緊張すら、まとっている。
けれどその緊張は、窮屈さではありません。
歩いていても、ご飯を食べていても、ショッピングしていても。2割、KLキンジョーのスイッチを入れてくれる感じ。すぐに、KLキンジョーの顔をつくれる。その2割を、ずっとキープさせてくれるんです。
人前に出る自分を、消すのでもなく、つくり込むのでもなく、そっと2割だけ起こしてくれる。ezuの服には、そんな力があります。

服が、自分に合わせて育っていく
キンジョーさんは、会場の大きさで、着るものを変えるそうです。500人のホールなら、金色など派手な柄で、ぱっと目を奪うものを。20〜30人ほどの小さな舞台なら、お客さんに圧がかからないよう、落ち着いたものを。
ezuの場合、同じ一着の「役割」も、着るうちに移り変わっていく、と彼は言います。
新しいうちは、ezuの服がもつエネルギーは強い。だから100人を超えるような大きい会場で着ています。でも着倒し、時間を重ねていくと、だんだん自分に馴染んでくる。そうすると今度は、20人、30人の舞台に、ちょうどよくなってくるんです。
服が、自分と一緒に年を重ねていく。
岩野も「キンジョーさんに合わせて、服が生きている。やがて50代、60代になったキンジョーさんの服になっていくんでしょうね」と応じていました。
そんな未来の話が、ごく自然に交わされました。
そもそも、なぜその服だったのか。岩野に尋ねると、答えは短いものでした。
エネルギー。言語化できない。キンジョーさんから出てる、エネルギー。
写真でキンジョーさんの姿を見ただけで、5秒で決めた。これは絶対に似合う、と。声のトーンや、その人から立ちのぼる気に合うものを、迷わず日本から携えて、海を渡ったのです。

ある種の、敬意
キンジョーさんにとって、いまのezuはどんな存在か。返ってきたのは、少し意外な言葉でした。
平岡さんや久美さんが創っているブランド、って、あんまり思っていなくて。ezuっていうブランドが、思った以上に、僕の中で強いんですよ。お二人を、超えてるくらい。
だからこそ、軽々しくは羽織れない。
その言葉には、ものをつくり、長く続けてきた人たちへの敬意がにじんでいました。
量産される服とは圧倒的にちがう。一個一個つくって、しかも、それを長年続けている。師匠、って感じです。衣装やファッションの世界の、僕の師匠(笑)
表現を生きる者どうし、通じ合うものもありました。「これが似合うと思うから、これだ」と差し出す、その信念の強さ。お互い、その感覚で生きている。
AIの時代って言われてますけど、この感覚、これは絶対、AIには生み出せないと思う。

「その自分になれば、必然的に出会う」
まだezuを知らない人に、伝えたいことはありますか。問いかけると、キンジョーさんは、迷いなく言いました。
その人のタイミングになれば、ezuとは必然的に出会うと思います。
いま欲しいと思っていなくても、いつか、ezuをまとう時期が来る。出会えるときは、来る。自分にとっては、それが、今だった。
5年前、6年前、僕がまだ今の僕ではないときにezuと出会っていても、こうはならなかったかもしれない。だからこそ、いま出会えたのだと思います。
これからのezuに、期待することは。最後にそう尋ねると、少し考えてから、こんな言葉がこぼれました。
「いつかezuが似合う自分になりたい」
そう思わせてくれるブランドであり続けてほしいです、これからも。

ezuの服をまとった時、ある人は「呼吸が楽になる」と言い、またある人は「皮膚がしっくりきた」と言いました。ezuの服が、まとった人の内側に静かに触れていく、その同じ作用を、キンジョーさんは、少し違う角度から照らしてくれました。
人前に立つ人にとって、ezuをまとうことは、外側を覆って、見た目だけを整えるのではない。「KLキンジョー」を立ち上げ、保ってくれること。背負った「ezu」とともに、カメラの前に、舞台の上に、出ていくこと。整えるための服であると同時に、立ち上がるための服でもあります。
服が盗まれても、着倒して味が出ても、彼はそれを笑いながら、ezuを自分の生き方のすぐ隣に置いていました。買ったときが終わりではなく、着るほどに馴染み、やがて50代、60代の自分の服になっていく。その時間を重ねていくことを、楽しんでいる様子が伝わってきました。
「その自分になれば、必然的に出会う」。
それは、ezuの服が、誰にでも届く服ではないこと、けれど、届くべきタイミングでは必ず届くということを、まとう人の側から、誇りを持って語ってくれました。
